奈良公園の四季(桜)
奈良公園の四季(桜)
天平の社寺が随所に建ち並ぶ総面積約660万平方メートル(200万坪)にも及ぶ奈良公園は、桜の名所としても有名です。
その奈良公園の中でも、とびっきりの桜の名所をご紹介しましょう。種類の違ったいろいろな桜が楽しめます。
新聞や駅などで見頃をお確かめの上、お出かけください。
コース番号 | 01-H00 |
所要時間 | 約3~4時間 |
歩行距離 | 6.0km |
対象期間 | 3月末〜4月 |
利用交通機関 |
コースは一例です。
ご希望に沿って自由に設定できます。
このコースの概要
みどころ
浮見堂
御蓋山(みかさやま)をバックに、池に広がる桜もみごとです。貸しボート屋さんの前にある「水琴窟」も聞いてくださいね。
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 御蓋の山に いでし月かも 阿倍仲麻呂
若草山
「奈良県新公会堂 別館」を過ぎて白蛇川沿いに右へ進むと、若草山の山麓に出ます。ここは桜の並木が連なり、ふもとには芭蕉の句碑があります。
若草山の開山期間:3月第3土曜日 ~ 12月第2土曜日
奈良七重 七堂伽藍 八重ざくら 芭蕉
東大寺講堂跡
若草山から、手向山八幡宮、法華堂を通り、二月堂下から石畳の坂道を下りると、講堂跡に出ます。ちょうど大仏殿の裏手にあたります。「ウワミズサクラ」「カスミザクラ」「エドヒガン」などの桜が見られます。
奈良に来て 大仏殿の裏手なる 草原に来て君を思いぬ 平野万里
参考コース順路(一例です。)
場所 | 内容 | |
---|---|---|
近鉄奈良駅 | 出発場所 | |
徒歩移動 | 10分 | |
興福寺 | 10分 | |
徒歩移動 | 15分(一の鳥居経由) | |
浮見堂 | 15分 | |
徒歩移動 | 20分 | |
奈良春日野国際フォーラム甍 | ||
徒歩移動 | 15分 | |
若草山 | 15分 | |
徒歩移動 | 20分 | |
東大寺講堂跡 | ||
徒歩移動 | 15分 | |
転害門 | 10分 | |
徒歩移動又はバス移動 | 徒歩移動25分 バス移動5分(転害門バス停より乗車) | |
近鉄奈良駅 | 終了場所 | |
← 左のマークの場所では、トイレをご利用いただけます。 |
いち押しポイント
◎ 知足院
東大寺塔頭のひとつで、講堂跡の北側、階段を上った木立の中にある静かな佇まいのお寺です。本堂には、鎌倉時代から霊験あらたかと言われる「文使い地蔵」が安置されています。この境内裏山のナラノヤエザクラは明治時代に発見され、大正11年に「奈良の八重桜」の原種であると認定されました。翌12年には国の天然記念物に指定され貴重な存在となっています。ちなみにナラノヤエザクラは固有名詞で、白色から淡い紅色の花を咲かせる華奢な八重桜です。開花は遅く4月下旬から5月上旬です。
◎ 氷室神社
もうひとつ、ぜひおすすめしたいのが、氷室神社の「枝垂桜」です。境内には樹齢百年とい われる「枝垂桜」の大木があり、滝のように降り注ぐ華やかな枝振りとその優雅さには、誰もが息をのむほどです。この「枝垂桜」は奈良で最も早く開花(3月下旬)するので、残念ながら他の桜と一緒に見ることはできませんが、一見の価値は充分にあります。
◎ 県庁東(登大路駐車場南側歩道)
ここにも天然記念物ナラノヤエザクラが植えられています。奈良の県花で、市花でもあります。奈良公園の桜は氷室神社に始まり、ナラノヤエザクラが最後を彩ります。
いにしへの 奈良の都の八重桜
けふ九重に にほひぬるかな 百人一首
耳寄り情報
◎ 川路聖謨 植桜楓之碑
猿沢の池から大階段(52段)を昇りきった左側に「植桜楓之碑」があります。川路聖謨(かわじとしあきら)は幕末の約6年間、奈良奉行を務めました。植林の振興では、自ら出金して一般にも募り、興福寺や東大寺、佐保川の堤などに数千本の桜と楓の木を植え、今の「さくらの名所奈良公園」のもとを作りました。奈良の人たちから名奉行と慕われていました。
◎ 新薬師寺の修二会(しゅにえ)
4月8日は、新薬師寺の修二会「おたいまつ」が行われます(午後7時~)。
東大寺二月堂の「お水取り」と同じく、11本のたいまつが奉納されます。例年、この頃は境内は桜が満開です。桜花が咲き乱れる夜、寺僧の持つたいまつが本堂を巡るさまは勇壮で霊験な行事です。ぜひお出かけください。
(お問い合わせは新薬師寺へ TEL:0742-22-3736)
耳寄り情報
奈良時代の国選歴史書である『続日本紀』霊亀二年(716)五月十八日の条に、「元興寺を左京六条四坊に徒し建つ」と書かれていますが、左京六条四坊は大安寺のあるところですので、この記事は大安寺の移建に関するものと考えられています。飛鳥寺(法興寺・元興寺)と大安寺はともに大寺と呼ばれていたために、原史に「霊亀二年に大寺を左京六条四坊に遷す」とあったのを、続日本紀の編者が、この大寺を大安寺でなく、法興寺と誤ったものと推定されています。